JUSTadICEのMVと両性具有性


JUSTadICEのMVでは少年漫画特有の殴り合いによって育まれる強い結びつきという、男子ならではと思われがちな世界を完全に女子のみで違和感なく描いているという点が新鮮。
りこちゃんの振り付けと2人の動きの戦闘能力の高さがその違和感のなさを支えている。


「僕」という衝動は男性だけのものではなく女性の中にも確かにあるということを大森さんはずっと言っていて、
女子の「可愛い」だけでなく女子の中の「僕」という従来の女性のジェンダー規範からは外れた感情も大森さんは肯定し続けている。「可愛い」の肯定以外のこの部分にも救われる人は多いはず。

「僕」を歌詞に用いる女性歌手は他にもいるけれど大森さんの「僕」は男性の気持ちの代弁ではなく、純真で儚いだけの少年でもなく、リビドーを怒りとともに爆発させる生々しい少年でそれゆえの輝きを放っている。JUSTadICEだけではなくVOIDにも強くそれを感じる。TBHなど過去にもいくつかある。

大森さんはそれを歌うことによってその怒れる魂を承認してくれるマリアでもありしかし本人もそのリビドーを抱えて実際に悶絶しながら生きているという特異な両性具有性を持っている。

VOIDをライブで聴く時いつも混乱するのはなぜかと思っていたけれどその両生具有性が原因のひとつかもしれない。強く心惹かれるが、このような人は見たことがない。
怒れる少年は傷ついた少年でもある。私は大森さんを見て傷は光を反射して光るのだと知った。family name の歌詞にあるように、「かわいそう抜きでもかわいいし」という意識が根底にあるのでその傷は被害者としてのかわいそうなだけの傷ではなく戦って得た勲章の傷でもあるので腐ることなく光を反射する

大森さんの音楽は絶望の最中にあるように見えてもどこか希望を感じる。その理由はここにあるのではないか。
傷の肯定。それをライブ中に自身にも行なっているのを度々目にする。大森さんの自己治癒を見ることによって観客の身にも自己治癒が起こる。この連鎖が孤独が孤立しないということではないか。