個を突き詰めるということ

本当に、自分を突き詰めるほど、人は孤独になる。これは実体験。
わがまますぎて人を傷つけるというのではなくて、単に本当の固有性というのは異様だから気持ち悪すぎて、かっこ悪すぎて、深刻すぎて、どんなに引かないよと言っている人でも引かせてしまう。 

表面的な魅せ方のうまさがほとんどの印象を決めるのだと勿論わかっている。デザインを仕事にするくらいだし、その部分を調整するのはむしろ好きだ。
でも最終的な部分で、固有性を隠すのはどうしても空虚で不誠実な気がする。空虚で手応えがなくて、それでもし好かれても全然嬉しくない。
空虚なことを続けると人は死にたくなる。
 
それに、空気を読んで固有性を隠していると辿り着けない、かけがえのない景色や信じられない奇跡みたいな領域がこの世には確かにあるのを知っている。
 
色々な事件の表面に見える因果関係はほんの一部で、根本原因はいつも人のどうしようもない固有性にある。
どうしようもない固有性は飾りじゃないから一般的にはどうしようもなく気持ち悪くて面倒くさくて不快で受け入れがたい。その面倒臭さはその人間の闇とか病みとか欠点とか呼ばれるような、切って捨てられるような一部分の話ではない。
その人間を形成している構造全体が創っているものだ。分けることはできない。根本的な絡まりあった複雑な構造それ自体が全力で素直に可動した結果、どうしても研ぎ澄まされすぎて世間的には異様で気持ち悪くなる。
 
しかし構造上必然な気持ち悪い運動をしている構造体、本当はそれこそが美しい人間と呼ばれるものなのではないか。
動きそのものは一般的に見て異様だとしても。いやむしろ異様だからこそ。
異様と感じるということは俗世から浮いているということだ。
俗世から浮き出るもの、それこそが美だ。
 
しかし、同じフィールドで生活していると、人は勝手に自分とその構造を比べて気持ち悪いと牽制してしまう。
その運動が自分に害を及ぼすのではないか、その運動が同じフィールドに存在することによって誰かに自分の運動や自分の価値観を否定されるのではないか、という防衛本能によって。
 
必然に従っている運動体の醸し出す固有性の美が報われるためには、運動が生み出すエネルギーを何か独立した事象に振り切って注ぎ込んで昇華するのがてっとり早い。
絵であったり音楽であったり、いわゆる作品と呼ばれるものに。
 
本当の作品とは生活の一部の表現なんかじゃなくて、生活とは別の階層に、生きた機構を幽体離脱させて飛ばして、気持ち悪いエネルギーをメタモルフォーゼさせたものだ。
 
別の階層に飛ばせば、隔絶されているので観る人も安心できる。安心安全になって初めて人はその面白さや美しさに気がつくことができる。
でもそのタイムロスが私は時々悲しい。