流星ヘブンについて

 流星ヘブンがアレンジも歌詞も新鮮なのに、こんなに懐かしく以前から知っていたかのように響くのはなぜだろうと思っていましたが、この曲は大森さんとしては久しぶりに?ラブソングだからなのではないでしょうか。私見ですが、最近の大森さんは与える歌が多かったような気がします。また、ラブソングと取れる内容でもきちんと客体化されたものが多かった印象があります。

この曲は、今現在の大森さんの今現在の進行形の斬新なラブソングという感じがします。

そう思うと、専門的なことはわからないけれど、サビのメロディも王道と感じるくらいラブソングらしいメロディです。だからでしょうか。言葉ひとつひとつは創造と破壊に対する苦悩なのですが、全体を貫く空気は、曲の冒頭の歌詞にある、「愛されたい」になっています。
draw (A) drowもそうでしたが、「~して、~て」など聴き手に何かを要請するフレーズが多く、draw (A) drow は自分に対して要請していると感じる歌詞でしたが流星ヘブンは自分でも、いなくなった誰かでもなく、聴き手に働きかけています。
そのせいか、聴いていると、流星のように消える寸前の”私”が恋しくてたまらなくなります。消える前にその魂を握りしめて捕らえたいと思ってしまいます。その不可能性に挑戦したくなります。
 
また、気になるのが「a.」という歌い出しです。
柔らかい息の混ざる声で始まるのが新鮮です。
どういう意味なのか。
冠詞としてのa、ひとつのanswer、羅列されるひとつの出来事、息遣い(生き使い)という意味と私は解釈しました。
「a.」に続く歌詞内容は、大森さん自身を歌っていると感じる歌詞と、インターネットから拾い上げたのかなと感じる歌詞があります。つまり、大森さん自身の吐息と、ネットの中にいる誰かの吐息が並列されています。
大森さんと大森さんではない吐息が並列されて混ざり合い最終的に全てが大森靖子となり音楽となっている。としたらこの構成は、マジックミラーのコンセプトの具現化と受け取れます。大森さんとそうでない者の境界が一曲の中でより曖昧になっています。
大森さんによって”ヘブン””ヘブン”と繰り返されるたび、その並列されてたいくつも存在する様々な個々の天国がふっと浮かび上がるように生まれます。個々に””で括られた”ヘブン”。「私 流星」でその間を流星である数々の大森さんが駆け巡る様が浮かびます。
 
全体の歌詞について、刺さるフレーズはほぼ全てなのですが、ひとつ取り出しておきたいのが「私で魂ヌいてください」というフレーズです。
このフレーズを聴くたびに文字通り魂がぶちヌかれます。
なぜなら「魂」という精神的で崇高な言葉と「ヌく」というあまりに肉体的で俗的な言葉が直結しているために、絶頂から解脱へ、一気に開放される感覚を、この短いフレーズを聴いた瞬間疑似体験できるからです。たった2つの組み合わせなのに音速でジェットコースターしています。すごい。
その視線には「魂」や「ヌく」ということに先入観を持っている世の中に対し俯瞰しているような目線を感じます。「魂」は崇高に扱われがちだがもっと俗な魂もあるのではないかという問いと、「ヌく」という行為は俗的に扱われるが崇高な一面もあるのではないかという問いが含まれています。
それは綺麗は汚い汚いは綺麗、という言葉のように、2つの言葉の聖俗の境界を揺るがし問題提起をする目線です。
 
さらにこれはアルバム全体のコンセプトをまとめあげるフレーズでもあります。なぜこの曲が表題曲なのか。そのアルバムタイトルが「MUTEKI」なのか、「MUTEKI」というアダルトビデオメーカーを知っていれば、この一言で完璧にわかってしまうとても親切で、しかし新鮮でこれ以外ないと思わせる、まさにキラーフレーズです。
 
この手法に似た歌詞に「ドグマ・マグマ」の「さっさとアーメン」があります。「さっさと」という即物的な言葉に「アーメン」という宗教的な言葉をぶつけることで宗教の盲目さを問いかけている、ように見せて、実はそれだけではありません。これには元ネタとして、「さっさと引っ越し」という言葉で一世を風靡した「騒音おばさん」で有名な奈良騒音傷害事件があります。
事件当初は彼女が「さっさと引っ越し」と絶叫し続けるはた迷惑な頭のおかしい加害者のおばさんとして報道されていたのですが、後になり、彼女自身が元々嫌がらせや騒音などの被害者であり、そのために相手への抵抗として「引っ越ししろ」と必死に訴えていたという説がある、と知られたという事件です。被害者と加害者は報道や編集により簡単に入れ替わって見えるのだと考えさせられます。
それを考慮すると、これは「アーメン」と宗教にすがる人の盲目を揶揄したようにみせて、実はそれが滑稽な盲信ではなく、盲信に見える方が真実である可能性もあるのでは、ともう一度信仰というものの正否を問い直す言葉だとわかります。
つまり、神神詐欺、本当に詐欺かな?どっちかな?と問いかけているのです。
「さっさとアーメン」の軽やかな絶唱は様々に思考停止する社会への警鐘なのだと言えます。
 
この聖俗併せ持つ社会性を含んだアクロバティックな問いかけの手法はまるで現代アートのようです。つまらない現代アートよりよっぽどアート的です。なので大森さんの曲が芸術祭のテーマソングになる日もそう遠くないと、私は思います。
 
そしてこの曲の強度を観て思うのは、メジャーデビュー、道重さんの休業、再生、その他様々な出来事を経て、ここに来て大森さんの輪廻の螺旋が一周したのではということです。創造と破壊のプロセスには一秒毎に繰り返されるような小さいものと、もっと大きい規模のサイクルがあると思います。その大きなサイクルが一周した、のではないか。
JPOPとしての洗脳、黒い穴のTBH、神神詐欺のキチガイア、わたしみとしてのMUTEKI。激しく広範囲に両腕を広げ、海をかき混ぜたことで、渦が起こり、それに乗りつつある、という情景が浮かびます。聴き手としてはその遠心力と求心力が恐ろしく強いため、魂ごと持って行かれそうになります。
 
ZeppDCのキチガイアのライブも「一周」を思わせる構成でした。本当に意外だったのがピンクトカレフの疑似再臨です。あの瞬間戦慄しました。常々、昔が好きだったと言われることに不満を漏らしていた大森さんがそれすら再構築しだしたのだと、その全てを飲み込み乗り越えようとするエネルギーに畏怖すら感じました。神をテーマとしたライブのはずが黒魔術のような蘇生術を見せられた思いがしました。しかし神と悪魔もまた表裏一体なのだから当然といえば当然でしょう。
 
大森さんは、draw (A) drow発売あたりから創造と破壊、ということをインタビューなどで口にするようになりました。創造と破壊は芸術界隈ではよく言われる言葉ではあるけれど「流星ヘブン」で描かれる破壊の痛みの解像度の高さに驚きます。
歌詞の内容だけでも痛切にわかりますが、よりわかりやすいのが、流星ヘブンの2番の爆破する、の後の無音です。爆破という轟音がなるはずの出来事が無音によって表現されている絶望感とMVでの無音の次のカットの「死ぬことが」で見開く殺される大森さんの目です。
あれは、刺された後混濁した意識の中で予知夢を見て、そこで何かが爆破する瞬間を見、爆破音が無音だったことでその爆破は自分の爆破なのだと直観し、慄き目覚めた、という風に見えます。これから殺される絶望に、その時初めて気がついたように見開く目があまりにも魅力的です。
このシーンを見てもわかるとおり、一秒毎に死ぬ"私"もまた、身体があり、痛みを感じ、埋められる時、死にたくないともがき、恐怖し、目を開き抵抗する。一秒毎に断末魔があがる。無音の断末魔が。
という創造と破壊の当事者にしかわからない生々しい恐怖と激しい抵抗が描かれています。
殺される自分も唯一無二でありコピーでも代替可能なロボットでもメタで虚無なペルソナでもなく、1人の生身の自意識と人格と魂を持った人間なのだとわかる秀逸なシーンです。自分で自分を殺すことも殺人であり絶望と希望の壮絶な殺し合いなのだとわかります。
それにも関わらず、生きる(優勝する)ために自分を殺人する。一秒毎に殺人する。しかし時にキチガイアのライブでのように、その死骸すら愛によって増強して蘇生させる。その全てを使い、愛してくれと全方位に一対一でラブソングにのせて訴えてくる。
これがMUTEKIでなくてなんなのでしょうか。
 
MUTEKIのジャケットの大森さんは2人います。1人はどこかメジャーデビュー以前の映画「サマーセール」で「PINK」を歌った時を思わせる、街中に立つ大森さん。もう1人は真っ白な零の背景の中でハミングバードの黒い翼を生やした大森さん。その翼は悪魔の翼にも似ています。私には黒魔術の蘇生によって新しい「超私」となった大森さんに見えました。
 
「超私」から放たれる9月27日の「MUTEKI」発売が今から待ち遠しいです。