「THE END OF ANTHEM」を観て

 

縷縷夢兎の東佳苗さん監督作品「THE END OF ANTHEM」を高円寺に観に行きました。

 

入場待ちの列で自撮りする女の子

ミスiDらしき繊細な造形の女の子達が溢れる高円寺の夜のカフェ

 

すでに映画が始まっていると感じました。

 

Twitterの前評判や会場の入口からシームレスに作品に繋がるこの感じは、以前佳苗さんの個展に伺った時も強く感じました。作品だけでなく佳苗さんを取り巻く環境含めて縷縷夢兎なのだと再認識し、胸が高まりました。
女の子女の子女の子女の子。手入れされた髪きめ細かい肌指先のハイライト厳選した服むせ返るような自意識。十代の頃、性徴をうまく受け入れられなかった私が、出たり入ったりして勝手に覗いて興味深く観察していた世界。
それらは間近で見ると生々しく瞬いていました。
私はいつものように、その空気にあてられて、身体の表面への意識が妙に高まり、野生動物になったような気持ちになりながら中に入りました。
 

映画はというと、断絶に次ぐ断絶。

高い湿度の指先で丁寧に晒け出された断絶の傷口を特等席で入念に眺めさせられるような内容で、その手つきはまさに縷縷夢兎の衣装と同じ手つきでした。

 
 

映像の中で人が発話する度に裏で衣擦れのような摩擦音が、鳴っていないのに聴こえる。自意識の繊維が絡まって擦れ合う。劇中の役としての人物が醸す自意識と、撮られている演者の等身大の生の自意識が混濁し、こちらは物語を観ているのか私生活を観ているのかもっと別の何かなのかわからなくなる。

そういった自意識の摩擦を、執拗に様々な角度から様々な人物を使い、摩擦がよく映えるシーンだけを断片的に拾い上げて描くものだからもう摩擦にしか意識が向かなくなりこの世は摩擦でしかないという気持ちにさせられる。この構造だけでも息ができなくなるのに、メインテーマが断絶。

さらに映像の中の生の断絶があまりにさらけ出されているため、のぞき小屋を視姦する側としての己を意識してしまう。この場に少し馴染めていない、摩擦を感じながらすぐここに存在している、己の肉体の牢獄の実在を意識し、私は私で断絶を、別個に抱えてここに座っていると、リアルタイムで体験してしまう。断絶がミルフィーユのように折り重なりうず高く伸びていく。
 
じっと座っている自分と対比するように、劇中の人物達は果敢に肉体の牢獄を越えようとキスをし、セックスをし、酒を酌み交わし、相談し、食べ、ネット空間に己を晒す。

何かをして何かが触れ合ったような気になっても心の底は触れ合えない、触れ合わない、触れ合ってはならない、触れ合いたくない、触れ合えるなんて思っていない。そんなシーンが続く。
物理的な何かをすることで触れ合えると思うなど下品で愚かな思い込みなのではと画が問い続ける。

逃げ場のない断絶の断崖に囲まれて意識が朦朧としてきたところでエンドロールが始まる。
 
それを眺めながら、
それでもなお、人はこれからも触れ合おうとして無数の断絶の傷跡を縫い続けるのだろう、と考える。
何のために
触れ合えない領域があることを確認するために
そこは言わば聖域で神殿で、そこから目をそらさず認識するということが、
それがもしかしたらいわゆる愛というやつなのかもしれない。
触れ合えないことが、むしろ希望
いや、しかし
 
そんな肉体の牢獄を超えられる最後の砦が
こういった作品なのではないか
 

 

 

と、そんな事を
THE END OF ANTHEMを観て
思いました。