なぜ私は生き残っているのか

大森靖子さんが出演していたハートネットTVの#8月31日の夜に、を見て自殺について。私もかなり行き詰まってあ、これはまずい、と思った経験があるのでどうしたら希死念慮は消えるのかとよく思っていたのですが、改めて考えさせられました。

Twitterでお薦めしたバンジージャンプ、あれは死を感じるのには有効なので段階によっては意味があるとは思うのですが、慢性的な希死念慮ならまだしも、今!死にたい!今!という時、バンジージャンプとか、生きてれば将来楽しいことがある可能性があるかどうかとか、死んだら親が泣く、とか関係ないですよね。そもそも見えない。今苦しいから今やめたい。息ができない助けてもう息なんてしたくない。それだけで理屈なんてない。

じゃあどうしたらいいのか。
死にたいと思う根本原因のひとつに、自分に価値がある、意味があると思えないというのがあるのではないでしょうか。違う人ももちろんいると思います。でももしそうであるならば大丈夫だよって慈悲深く受容されても休まらない。慈悲を向けられる自分はやはり価値がないように思えて耐えられない。許されたいんじゃ、恐らくない。

だとしたら、今生き残っている私は何らかの方法で、自分に意味がある価値があると思えるようになったのか。答えは否です。特別自分に価値や意味があるとはやはり思えていません。というより、あまりそういう観点で考えなくなりました。

じゃあなぜ生き残っているのか。大森さんのライブのおかげ?目の前で死ぬ人を見たから?しのこわさをしったから?どれも一因ではあると思いますが決定的ではない気がします。

決定的な理由は、孤独を固定したからかもしれません。
どうあがいても1人だと。良くも悪くも個体であり、切り離されていると。だから自分の大事な孤独や価値を誰かに託すのをやめようと。それは天変地異が起きてもそもそも無理なのだと。物理法則に反していると。事実として固定しました。肯定ではなくただここにあるものとして側に置いた。なぜ固定したのか。

そこに意味と価値が生まれると思い知ったからです。

大森さんが孤独の痛さや強さや弱さを叫んでいるのを見てそれを信じられるようになりました。
大森さんが単純に孤独は素晴らしいとかではなく、孤独の現実的な残酷さが生む鮮血の鮮やかさを、それが至上の価値みたいに表現でまるごと魅せてくれるからです。

特にニューシングルのdraw (A) drowは孤独の痛みから上がった怒りと血飛沫が星になるみたいな歌で。しかもその星も誰かの斬新な希望で消滅する。という宇宙規模の孤独を歌っているような衝撃的な歌です。
「何かが体内で 意志を持って生まれる時 とても痛いけど」
「僕が描いた僕だけが 次の一手を そっと僕に告げる」
「また誰かが 斬新な希望で 僕の遺作を 世界を 壊して」
これだけではないですが数々の歌詞が私を日々説得しています。

大森さんの音楽を見て、聴いて、残酷で現実的な孤独なら知っている、ならば私ももしかしたら鮮やかな何かになれる可能性があるのだと思ってしまいました。
そしてその鮮やかさなら、ダメな自分からでたものでも愛することができる気がする。と感じました。

さらにに言うと私は自分自身に意味があると思いたかったのではなくて、意味があると思えるものに、鮮やかな何かに出会いたかったのだと気がつきました。

希死念慮の原因である孤独と自己嫌悪が、全く関係のないような、あの規格外の鮮やかさを創る。
生まれた鮮やかな何か、と産んだ不自由な個体はありがたいことに、切り離される。
鮮やかな何か、は恐らく、死よりも鮮やかであり、私を魅了する。
魅了された後、また不自由な私に戻り孤独と出会う。何かが生まれる。私から切り離される。魅了される。これを続けたくなる。
だから死んでない。

私は絵描きなので絵と考えるとわかりやすいですが絵描きではなくても結果的に「生き様」と呼ばれるものになると思います。

抽象的で、わかりにくく、あまり参考にはならないかもしれませんが、ひとつのケースとして書き記しておきます。

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