全人類片想い

通じ合っている、という言葉を聞き、そういえば私は人と通じ合ってると思ったことがない気がするけれど不感症なのだろうか、とぼんやりと考え始めた。

皆は通じ合っていると思ったことがあるのだろうか。私は通じ合おうとして対面で言葉を交わし合うことは好きなのでよくするけれど結果はっきりと通じ合ったと思ったことはないかもしれない。楽しかったと思う。おしくらまんじゅうみたいなものだ。話した結果共通認識や共通言語が多いと知るともちろんそれはとても嬉しい。つまり認識や意思が疎通することを私は「通じ合っている」と捉えていないということに気がつく。私が「通じ合ってる」と聞いた時に思う主語は「気持ちが」だ。それは「魂が」とかそういうのに近いイメージでつまり互いに「愛し合っている」という確信を持った状態を「通じ合っている」と考えているようだ。

では「愛し合って通じ合っている」とはどういう状態だろうか。そもそも私は愛がわからない。自分が人を愛している、という状態は最近わかってきたけれど、愛されている、という実感はあまり持ったことがない。恋人は今までもいたし付き合っている間はとても仲が良く、一生一緒にいるのだろうと思ったりもしたけれど「愛し合って通じ合っている」と思ったことはなかった。一般的に愛し愛されている「両想い」という状態は何か同じだけの同じような愛をお互いに持っているようなイメージを抱くが、本当は互いに「片想い」し合っているだけというのが正しいと思う。「両想い」という言葉は不幸な誤解を招く。片想い同士であると思えば相手が同じだけの愛を返してくれなくても片想いだしなと思えるし相手がよくわからない愛し方をしてきてもよくわからないけど私のこと好きなんだなという許容ができる。本当は全人類「片想い」なのではというのが私の認識だ。

そのように「全人類片想い」状態が前提認識であるためか、何よりも私は愛されていると誤解することを恐れている。勘違いしたら傷つくというのもあるけれどそれよりも誤解すること自体を恐れている。愛以外も同じだ。これは私の認識でありあなたの認識ではない、とても似ているがこれはあなたの認識でありわたしの認識ではない、などということに異様に敏感で潔癖なところがある。過干渉な家庭で育ったことも一因としてあるかもしれない。相手のこちらへの思いの誤解することは、翻って相手の心の領域を侵犯することにつながる。それが自分が愛する相手だとしたらさらに恐ろしい。だから愛する相手からほど愛されていると思えない。かなり確信が得られるまで思ってはいけない。と考えている。しかしそれは時に逆に失礼なことなのだしわざわざ確認することではないのだ。それを私はよく間違えてしまう。「通じ合わない」という前提が強すぎて言葉にしなければ伝わらないという強迫観念もある。しかし言葉など信用出来ないとも思っているのだから始末に終えない。

このような認識なので「愛し愛されて通じ合う」などという事自体ファンタジーのように感じてしまう。この状態を悲劇的なこととは全く捉えていないけれどこの状態以外の認識世界もありうるのだろうか。私にはやはりわからない。